「火垂るの墓」
よく「火垂るの墓」で議論になる問題のひとつに「なぜ幽霊になった清太と節子は母親や父親の霊に会えないのか」というものがある。
なぜ、映画のクライマックス、清太と節子は二人きりで現代の街並みを見降しているのか。
久々にきちんとこの映画を見返して、またいくつかの本を読み、私なりに考えた。
この映画は清太という主人公の少年が次々に居場所をなくしてしまう物語であると気づいた。
空襲で家と母親を失い、おばさんの家に移り住むが未成熟な思考からその居候先も捨て、横穴に節子とふたり暮らしを始めるが、やがて節子を栄養失調で失う。
在りし日の、またはあるはずだった未来の節子の思い出が詰まった横穴にそのまま住み続けることができなくなり、清太はそこを捨てて山を降りる。
節子を先に栄養失調で死なせた清太は、実は節子よりもきっちりものを食べていた事になる。
節子の死後、その罪悪感に囚われた清太は、死んでからも母親と父親には会うことができない、いや、自らを責めて会おうとはしないし、探そうともしない。
節子の骨を母の遺骨ととも墓地に埋葬することをせず、ドロップの缶に遺骨を入れて持ち歩くことで、節子の霊を家族のもとへ帰すということを拒否する、霊になった節子を連れて二人きりで地上と過去を彷徨い続ける。
清太は天国という終の住処すら無くしてしまった。
原作者の野坂昭如はこの作品を「あれは心中物だから…」と対談で語っているが、心中の目的が「死んで来世で再び結ばれる」ことであるならば、二人の願いは半分叶い、半分叶わなかったことになる。
二人は永遠に結ばれることにはなったが、来世に新しい肉体をもってそれを享受することはできなかった。
永遠に地上をさまよい、過去の自分の過ちを繰り返し思い出し、彼ができることは「見る」という一方的なことだけになってしまった。
だから、清太は画面の向こうからこちら側にいる観客に視線を送ることしかできない。阿修羅のようなそのまなざしからは怒りも、悲しみも悔しさも読み取れない。
なぜ、なんの罪も犯していない少年がこのような永遠の悲しみに捉われなくてはならなかったのか、その不条理さ。そして、現代の我々の繁栄は数万の不条理な死を迎えた瞳にいつでも見つめられている。
私たちはその視線を思い出す義務がある。
それがこの映画のひとつのテーマなのではないかとぼんやりと考えました。
「私たちは先立った人たちに見つめられているのだ、という日本人の昔からの感覚をもつことが必要なのではないかと考えているのです。」(高畑勲「映画を作りながら考えたこと」)
高畑監督、数々のすばらしい作品をありがとうございました。